褒めて伸ばすタイプ。

大学生が音楽、笑い、カルチャーなどおもしろそうなことについてお話します。(ドヤア

日本代表戦を観ない私はアンチなのかという件について。

先日サッカーワールドカップ最終予選がありましたね。

無事日本はワールドカップ出場決定、ということで。

ちなみに私はその時間、電車に乗っていたのですが、向かいの席の親子がスマホで試合を観ていて、親子の会話を通じて出場決定を知りました。 ワールドカップへは3度目の出場であり、そういう意味では過去に比べれば世間の盛り上がりは落ち着いていましたが、それでも私の周りでは、現地や、パブリックビューイングや、スポーツバーなどで観戦していた人もいて、まだまだ日本代表人気は衰えずといったところでしょうか。

無事日本代表が出場決定し、みなさんが幸せな気分になっている中、こんなことを言うのは気が引けるのですが、私自身は日本代表に対して関心がありません。言ってしまえば、「アンチ日本代表」かもしれません。正確にいうと「アンチ日本代表に対する盛り上がり」でしょうか。いや、別に日本代表を応援している人を否定するつもりは毛頭ありません。どちらかというと、日本代表ブームに乗りきれなかったことに対しての寂しさを抱いております。その上で、なぜ私が日本代表に乗れなかったのか、ということを考えると、ファンとアンチが生まれる構造が見えてくる、と思い、今回はその辺について話したいと思います。

 

結論から言うと、ファンというものは、「その物事に対して物語を共有している」ことにより生まれると思います。物語とは、文脈のことであり、日本代表について言うと、「日本代表は私たち日本国民の代表であり、それを応援するのは当たり前」ということです。現状、サッカーというスポーツそのものは日本において浸透はしていません。少なくとも、日本代表に対する盛り上がりと比べると、Jリーグを好きで観ている人は圧倒的に少ない。それなのに、毎回日本代表の試合は視聴率も高く、ここまで話題になるのか。それは日韓ワールドカップ以降、日本代表というコンテンツの魅力に気づいたマスコミなどを中心に、今の日本に先ほどの物語が共有されていったからです。

「日本人だから日本代表を応援する」という物語は、日本人にとって無意識に共有できるものです。今の国民にナショナリズムがどの程度根付いているかは分からないですが、少なくとも外国よりも日本の方が「自分事」として共有しやすいのは明らかだし、CMなどの露出が多い本田や香川がいることで、「知っている人がいる」というレベルでも受け入れやすいのは間違いありません。これらは非常に些細なレベルの共有ですが、サッカー自体の知識が少ない時点で、他の国への共有が起きる要素がほぼゼロであるため、相対的に日本代表への共有が起こるわけです。

一旦少しでも日本代表を応援する、という物語を共有してしまえば、あとは、知識がなくともカジュアルに盛り上がるシステムは溢れています。テレ朝のアジテーションのような実況を聴きながら、スポーツバー、スタジアムや映画館などでのパブリックビューイングに参加して大勢で感染すれば、物語へのコミットはいくらでも大きくなります。「乗るしかない、このビッグウェーブに」状態です。

こうして、日本代表というコンテンツは日本有数のメガコンテンツとなったわけです。 では、何故私はこのビッグウェーブに乗りきれなかったのか。それは私がヨーロッパサッカーファンだったからです。最近はそこまでではないのですが、中学、高校時代はヨーロッパのサッカーにハマり、一時はヨーロッパ主要リーグ(イングランド、スペイン、イタリア)の一部リーグ全チームのスタメンを暗記したくらいでした。そんな私にとって、日本人だから日本代表を応援する、という物語以上に、他の国に対する思い入れがあるわけです。日本代表の選手以上に、その対戦相手のチームの選手の方が好きだったりするわけです。私にとって日本代表以上に他の国を応援するべき理由があったのです。

一度日本代表に対する物語のレールに乗れないと、あとは、そのズレは大きくなるばかりです。日本代表の物語を増幅させるシステムはその根本を共有できていない人にとっては理解が出来ないものであり、不快感に近いものすら感じるわけです。何かに熱狂している人たちを、その熱狂の対象を理解、共有していない人が見ると、その異様さを実感してしまうのです。熱狂は理性的ではないということであり、理由なき(実際はあるけれどそれが理解できていない)熱狂は狂気にすら見えてしまいます。そういうものに接した時、それに対する対応は、無視か批判です。その結果、その対象というよりも、その対象に熱狂している人に対して批判をする「アンチ」というものが生まれるわけです。

 

改めて言っておきますが、私は構造的にはアンチですが、日本代表ファンに対して批判しているわけではないですよ。むしろ羨ましいです。

なぜそう思うかというと、この物語の共有という話は日本代表の話に限らないことだと思うからです。

 

何らかの趣味を持つ人は、多かれ少なかれ、その対象の物語を共有しているから楽しいのであり、その物語が複雑だったり、深いものであるだけ、そのアンチは生まれ得ると思っています。

例えばAKBのファンは、それぞれの推しメンを応援し、そのメンバーがそれまで苦労してきたという物語を共有しているからこそ、総選挙のためにお金をつぎ込み、総選挙での順位に一喜一憂するわけです。そのファンにとって、CDを何枚も買うことは物語として意味のあることですが、それを知らない人にとっては、物語から切り離された、同じCDを何枚も買う、ということだけがクローズアップされ、理解が出来ず場合によってはそれを批判するアンチになるわけです。

この場合、物語を共有できるかどうかの最初のポイントは、「メンバーが好きかどうか」になります。好きかどうかというものは完全にその人の生理的嗜好であり、主観的なものです。日本代表に比べてAKBのファンがしばし奇異の目で見られがちなのは、そこの理由が万人に理解されづらいからだと思います。日本人である、ということは基本的には明確であり、容易に理解できるからこそ、多くの人に受け入れられるのだと思います。

物語が理解されやすいかどうか、というポイントによって、その趣味に対してアンチが生まれやすいかが決まるはずです。「日本人だから日本代表を応援する」という物語、「このメンバーが好きだから応援する」という物語、「ロキノン系のミュージシャンが好きだからライブに行く」という物語など、それがどれだけ(本人が好きかどうかは別にして)理解されやすいかどうかによってそれに対するアンチが生まれやすいかが決まるのではないでしょうか。そのファンに対して○○オタクや○○厨などの別称がつきやすいかどうか、ということもこの点に関連があるように思います。

 

アンチの多くはその対象に対して理解していないか、もしくは自分の感性を絶対視し、他者の価値観を認められないから生まれるのだと思います。「同じあほなら踊らにゃ損」という言葉があるように、それを否定するのは簡単ですが、理解してみようと努力することによって、もしかしたらそれを好きになるかもしれません。まずは他者を認めて、理解しようと努力することから始めたら、世の中もっと楽しくなるのかなあ、と自戒もこめて思うのでした。